バリ絵画の歴史と進化

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バリ絵画の歴史を語るとき、大きく2つの時代が存在すると言えます。ひとつがワヤン(影絵芝居)をルーツとして16世紀に始まった古典絵画の時代、そしてもうひとつが1920年代のオランダ統治下で西洋絵画と出会い、融合、発展したバリ・ルネッサンスの時代です。

【ワヤンの物語を描いた古典絵画】

ワヤンの物語を描いた古典絵画

幻想的な光と影の芸術、ワヤン

バリの古典絵画は「ラーマーヤナ」「マハーバーラタ」などのインド叙事詩やヒンドゥの神話を主題としたワヤンをモチーフに描かれています。16世紀頃から始まり、絵画技法として確立されていきました。

この頃の絵画の特徴はワヤンのスタイルと共通するところが多く、斜めから見た顔の形、身体の形状、衣装などにその影響を見ることができます。色彩は自然顔料と墨が用いられ、明るさを抑えた茶、青、黄、黒が使われています。このトラディショナルな技法は今日まで、イ・ニュマン・マンドラに率いられた芸術家グループによって引き継がれており、その村の名にちなんで「カマサン・スタイル」と呼ばれています。

作者不詳「アビマニューの死」ネカ美術館所蔵

作者不詳「アビマニューの死」
ネカ美術館所蔵

左の写真は「マハーバーラタ」の物語に登場するアビマニューの死を描いた作品で、カマサン・スタイルの特徴をよく表しています。王の座をめぐる二つの一族の争いであるバラタユダの戦いで、バンダワ一族の勇士アビマニューは敵の前線を突破し中に入り込むことに成功します。しかし、単独であったため敵の兵士たちに包囲されてしまい、最後は矢の雨を浴びて壮絶な最期をとげる場面が描かれています。

【植民地時代〜西洋技法との融合とバリ・ルネッサンス】

1920年以降になると西洋絵画の影響を受けた作品が次々と生まれました。ウブドやその周辺の村々で発達したウブド・スタイルです。この地域には、ヴァルター・シュピース(ドイツ)やルドルフ・ボネ(オランダ)など、ウブド王宮に招かれた外国人画家が滞在し、解剖法や遠近法、色彩などの西洋の技法を紹介しました。その結果、バリ絵画はその表現力を増し、伝統的な宗教テーマだけでなく、村人たちの日常生活を主題として取り上げ始めました。

イダ・バグース・マデ・ボレン「闘鶏」

イダ・バグース・マデ・ボレン「闘鶏」
(1971) テンペラと墨/キャンバス

そんな画家の一人であるイダ・バグース・マデ・ボレンの「闘鶏」をご紹介しましょう。
初めにちょっと闘鶏についてご説明しておきますと。バリのヒンドゥ教は土着信仰と深く結びついており、食物を育んでくれる大地(そこに宿る神々)に感謝を捧げ、一方、豪雨、洪水、地震などの災害をもたらす悪霊には、どうか悪いことをしないでくださいという意味のお供えをします。闘鶏による流血はそんな悪霊を鎮める儀式のひとつです。これは村の男たちにとっては何よりの娯楽でもあり、手塩にかけて育てた雄鶏をかごに入れて空き地の試合場に運び込み、その勝敗を賭け事にします。闘鶏、舞踏、農作業など村人たちの日常生活がしばしば登場し、「ウブド・スタイル」と呼ばれています。

【シュピースとボネ】

シュピース「風景とその子供たち」(1927)

シュピース「風景とその子供たち」(1927)

この時期のバリ絵画に最も影響を与えた外国人画家と言えば、間違いなくシュピースとボネの名が上がることでしょう。この二人はよく対比して取り上げられています。シュピースは現代バリ芸術の父と呼ばれ、1927年にバリを訪れて以来、絵画だけでなく舞踏、儀礼、音楽など広くバリ伝統芸能の復興に大きな役割を果たしました。絵画においては、独特の遠近法を用いて、異なる時間、空間軸をひとつの絵の中に表現する幻想的な風景画を描き、バリの画家たちの間に「シュピース・スタイル」という独自の様式を確立しました。

制作中のボネ。しなやかな体躯の男たちを好んで描いた

制作中のボネ。
しなやかな体躯の男たちを好んで描いた

シュピースがバリの伝統芸能や精神世界にのめり込むように活動したのに対して、ボネは西洋の技法を伝導するというスタンスを崩さず、その活動領域も絵画に注力したものでした。人物画を得意としたボネの影響を受け、バリの画家たちは解剖法を取り入れたことで表現力が飛躍的に向上しました。それまで平面的に描かれていた人物が、骨格や筋肉を意識した表現に変わっているのが、先ほどの「闘鶏」の人物描写を見てもわかります。
二人は1936年に地元の画家たちと芸術組織「ピタ・マハ」を設立し、観光客向けに大量生産された商用絵画と明確な区別をし、純粋な芸術活動への取り組みを推進しました。ボネは1956年にウブド絵画美術館(プリ・ルキサン美術館)の開設にも関わっています。

【西洋の影響を受けず独自の進化を遂げたバトゥアン】

イダ・バグース・マデ・トゴッグ「アマドの3つの秘宝」(1937)水彩/紙

イダ・バグース・マデ・トゴッグ
「アマドの3つの秘宝」(1937)水彩/紙

一方、同じ時代にバトゥアン村に滞在した外国人は画家でなかったため、バトゥアン絵画のスタイルは西洋の影響をあまり受けませんでした。そのため、暗い色使いで、人物やその他のモチーフでキャンバスをいっぱいに埋め尽くし、遠近法のない伝統的な技法が残されています。この様式はその土地の名前をとって、「バトゥアン・スタイル」と呼ばれています。

イ・ワヤン・ベンディ「観光客とバリの生活」(1988)

イ・ワヤン・ベンディ
「観光客とバリの生活」(1988)

しかし、この伝統的なスタイルも歳月と共に様々に変化しています。従来は宗教的なテーマが中心でしたが、その対象がバリの日常生活やさらにはジャーナリズム的な要素にまで広がりました。そのひとつが観光客を風刺的に描き、バリ人と外国人観光客との出会いをユーモラスに描写する画家たちです。また、色彩も豊かになり、その表現力は進化し続けています。

【戦後に生まれた新たな表現スタイル】

イ・クトゥツ・ソキ「バリの村落」(1968)

イ・クトゥツ・ソキ「バリの村落」(1968)

バリ絵画に影響を与えたもう一人の外国人として忘れてはならないのは、オランダ人画家アリー・スミットです。スミットはオランダ軍地理班のリトグラフ制作技師として東インド(現在のインドネシア)に駐留した後、戦後再び独立したインドネシアを訪れ、1956年にバリ島ウブドに移住しています。スミットは独創的な鮮やかな色使いで地元の画家たちに強い影響を与え、彼が住んだプネスタナン村周辺では伝統的なモチーフと構図を極彩色で描く「ヤング・アーティスト」と呼ばれる画家のグループが興り、1960年代に一世を風靡しました。

プンゴセカン・スタイル

また、1970年代にはプンゴセカン村で、熱帯の花鳥風月を鮮やかな原色で描く一派が興りました。深い緑の熱帯の木々を背景に、プルメリアやヘリコニアなどの熱帯の花々、色鮮やかな野鳥、ユーモラスな表情をした動物たちが独特のタッチで描かれ、「プンゴセカン・スタイル」と呼ばれています。 このように、バリ絵画はその伝統色を大切にしながら、新たな刺激を受けて日々進化し続けています。