バリのこちら側と向こう側

 出会いはある日突然やってきました。私は趣味で絵を描きますが、最初はもっぱら模写でした。アンリ・ルソーの熱帯の密林を模写した後、同じような雰囲気の作品が他にないかとネットで探していた時のことです。私の目は吸い寄せられるように一枚の作品に。そこには深い緑を背景に原色の花や鳥たちが描かれていました。さらに、バリ島中央部にあるウブドには多くの画家が住み、インドネシアの芸術の中心となっているとのこと。

アンリ・ルソー

アンリ・ルソーは生涯南国に旅することはなかったと言われる。その分、強い憧憬がエキゾチックで幻想的な作品に表れている

 その日から私のバリへの片思いが始まりました。「行きたい」けど「行けない」。その頃の私は外資系IT企業で営業の管理職として100名近い部下を持っていました。平日はもちろん土日も自宅でパソコンに向かう日々。立ち止まると流されるという危機感が常にありました。その作品は私のパソコンの壁紙を飾り、日々の慌ただしさをしばし忘れさせてくれる一服の清涼剤となりました。

 そして3年後、初めてバリへ。多くの方がたどる海辺から山側への旅ではなく、最初からウブドに直行し、そこに2週間滞在しました。2週間も休暇を取るなんて…、正直かなり悩みました。けれども、自分を取り巻く環境が大きく変化しつつあることを直感的に感じており、周囲にも温かく受けとめてもらうことができました。

作家との出会い、そしてバリ絵画を学ぶ

つがいの鳥が分断されるのは忍びなかった

真ん中で切り2枚の絵として額装して移送することを勧められたが、つがいの鳥が分断されるのは忍びなかった。

 ウブドに行った一番の目的は、あの作品を描いた画家に会うこと、そしてその人から絵を習うことでした。彼は田園風景の美しい村に住み、30代半ば、想像していたよりもずっと若い画家でした。それから4日間彼のアトリエに通いました。模写を通じて、下絵を丁寧に描く→黒の絵の具を水でぼかしながら陰影をつける→その上に色を重ねていく→竹を削って作った筆で輪郭を描くといったバリ絵画の基本的な技法を教えてもらいました。言葉はほとんど通じませんでしたが、彼の作品に対する真摯な思いや静かな情熱をはっきりと受け取ることができました。そんな思いを共有することができた記念に、アトリエにあった作品の中で一番気に入ったものを購入しました。畳一畳分もある大きな作品で日本に持って帰るのに随分苦労しましたが、今も自宅のリビングを飾っています、そこがまるでバリの「向こう側」に通じているかのように。

 その滞在を通じて、人が人らしく、当たり前にちゃんと生きていくことの原点に立ち返れたような気がしました。悲しいことがあった時、ふと子供の頃に見た風景や優しかった田舎のおばあちゃんの顔が浮かんできて、とても慰められることがありますよね。そんな時、急に凛とした気持ちになり、現実に向き合う勇気を与えられます。まさにそれと似た感覚でした。

ウブドで心の原風景に出会う

ウブドで心の原風景に出会う
自分が自分らしくあるために

各家にはムラジャンと呼ばれる家寺がある。また、ヒンドゥの神をかたどった石像が庭に置かれ、朝夕に祈りと共にチャナン(供物)が捧げられる。

 ウブドの田園風景は日本の原風景を思わせる懐かしさがあり、素朴な村人たちはほどよい距離感で接してくれました。その時の日記を読むと、こんな風に綴られています。

「ある朝目覚めると、雨が降っていた。しとやかな雨が緑の田園風景を柔らかく潤し、遠くに農夫の働く姿がにじんで見える。どこまでも広がる大地が忘れていた大切なことを気づかせてくれる。やがて雲の切れ間から青い空が顔を出すと、次第にその表情を変えながら、ゆっくりと時が流れていく。いつしか雨はやんでいた。」

「日が傾くと、日中の絡みつくような暑さはどこかへ消えてしまう。窓を開けると、しっとりと潤った、ひんやりとした夜気が流れ込む。虫の鳴き声に混ざって、どこからかガムランの音色が低く聴こえてくる。気がつくと、庭のあちこちに瑞々しい花びらに彩られたチャナンが手向けられていた。女たちは微笑んで言った、神々は至る所に存在するのだと」

自分が自分らしくあるために

 大いなる存在への敬虔な思いと感謝。他者に対する偽らない心。人間らしく生きて行く当たり前のことが時に難しく感じられてしまうせわしない時代にあって、日本人が失いつつあるものがここにはある。それがこの『バリアートショールーム』の出発点です。こんなバリの「向こう側」を様々な表現を通じてお伝えし、五感を振るわすアートスペースを目指していきます。

※坂本澄子が『バリアートショールーム』を開設した経緯は、中山マコト氏著『フリーで働く前に!読む本(日本経済新聞出版社)』 でも紹介されています。