バリアートショールーム オーナーブログ
2016.9.12

バリ絵画の歴史② 買い手が変われば品も変わる

  • こんにちは、坂本澄子です。バリ絵画の歴史を西洋絵画と対比させながら解説するシリーズ、第二話をお届けします。
ギリシャ神話が題材の「アケオロスの饗宴」(1615年)

ギリシャ神話が題材の「アケオロスの饗宴」(1615年)

その後ヨーロッパでは、太陽王と呼ばれたフランスのルイ14世に代表される強い王様の時代(絶対王政)がやってきます。ベルサイユ宮殿など、豪華で煌びやかなバロック様式の宮殿を彩ったのは神話や歴史を題材にした壮大な作品の数々。光と影の対比によりドラマチックに演出するのが当時の流行でした。

この時代に活躍したのが、イタリアの画家カラヴァッジョ、オランダの画家ルーベンス、レンブラントなどです。ここでも、おかかえ絵師として注文を受けて描くという基本的なスタイルは同じでした。

それが大きく変わったのは19世紀。その背景には2つの大きな革命がありました。フランス革命を始めとする市民革命、そして、産業革命です。これらによって一般大衆社会が生まれ、ブルジョアと呼ばれるお金持ちの市民が新たに絵画の主要な購入層となりました。

すると、それまで宗教画や歴史画などと比べ低く見られていた、風俗画や肖像画などが好まれ、また一般家庭でも飾りやすい小品が求められるように。やがて、画家たちは注文を受けてではなく、自発的に制作を行い、市場に向けて作品を発表するようになるのです。現在の銀座の画廊で絵を売っているのに近い形ですね。

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一般市民の生活を描いた小品が多いフェルメール 「水差しを持つ若い女」(1662年)

東インド会社による商業の発達により、早くから市民階級が台頭したオランダでは、既に17世紀にこの形が見られるようになります。フェルメールに大作が少ないのはこのためです。

そして、最も激動の時代を経験したフランスでは、アングル、ドラクロワ、クールベなど、サロン(官展)画家の時代を経て、印象派の画家たちによってこの新しいスタイルが定着しました。

 

バリ島でも大きな変化が起こりました。1908年のオランダ軍によるバリ全島支配です。当時バリ島は8つの王国による群雄割拠の時代でしたが、早くからオランダと友好な関係を結び、唯一領事という立場で生き残ったギャニャール王国以外は次々と攻め滅ぼされます。

1930年代、「最後の楽園」としてヨーロッパに紹介されると、ヨーロッパの人々は押し寄せるようにバリ島を訪れます。その中には南国の陽光としがらみのない自由な土地を求めて移り住んだ画家たちもいました。ギャニャール王の傍系だったウブド王家のチョコルド・スカワティは、早くから西洋式の教育を受け、ヨーロッパからやってきた芸術家たちを保護する政策にでます。そんな画家のひとりが、すでに何度もご紹介しているドイツ人画家シュピースです。彼はのちにチャンプアンに住まいを構えるまで、ウブド王宮内に住んでいました。

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    バリの人々の暮らしを題材にした作品

    このようにして西洋絵画と出会ったバリ絵画は、西洋絵画と似た変化をたどります。それまでバリ絵画といえば宗教画が基本でしたが、ヨーロッパから来た画家たちがバリ島の風景や人々の暮らしを珍しがって描くのを見て、目からウロコだったのではないでしょうか。「こんなのもアリなんだ」と新たな買い手となった西洋人に向けて、これらのモチーフを自身の作風で描くようになったのです。

買い手が求めるものを売り物にするのは、古今東西同じですね。そんなウブドには、スポンサーを失った各地の絵師たちが続々と集まり、今の芸術村が形成されていきます。

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