バリ絵画のオリジナリティ
こんにちは、坂本澄子です。
今日は第2回バリアートサロンを開催しました。今回のお題はシュピース。バリ絵画のみならず芸術全般において、最も大きな影響を与えた外国人のひとりです。その功績や作風の変化を追いながら、生誕120年の今なお、彼を慕う現代作家たちの作品を鑑賞しました。
また、お時間の許すお客様にお残りいただき、終了後に初めて懇親タイムを設けました。通日前にバリ島旅行から戻られたばかりのT様から写真を見せていただきながら、バリの魅了を語り合いました。
実は、この何年間か喉にかかった小骨のように感じていたことがありました。バリ絵画に作家のオリジナリティがあるかという疑問です。今回シュピースのことを調べる中でひとつの回答が得られ、改めて、バリ絵画の質の高さと魅力を感じたので、今日はそのお話を。
シュピースにはかわいがっていた弟子が2人いました。ソプラットとメレゲックといういずれもウブド王族の親戚筋の若者で、シュピースのアトリエに熱心に通っては、作品を模写していたそうです。ある日シュピースは言いました。
「君たちのスタイル(カマサン・スタイル)で風景でも人物でも自由に描いていいんだよ」
シュピースは2人が真似をすることで作品としてのオリジナリティが失われることを、さらには、バリで培われた伝統絵画のよさが失われることを危惧したのです。
これは、その当時のバリにおける芸術のあり方をよく表しています。
<バリ絵画はもともと個人主義でも、商業主義でもなかった>
バリの芸術は舞踊にせよ、音楽にせよ、絵画にせよ、いずれもみな「神様へのささげもの」であって、作家個人を表現するものではありませんでした。特に、西洋の影響を受ける前の古典絵画は神話を題材とし、若い画家たちは、徒弟制度の中で師の描いたものを克明に真似ることでその技術を継承していきました。画家は芸術家というよりはむしろ職人に近かったんですね。何を描くかは既に決まっており、線をいかに細く優雅に引くか、いかに細密に描き込むかといった技術的な面で、その完成度を競ったというわけです。
ガルーは奇しくも生誕100年の記念の年にドイツ留学を果たし、シュピースの原画を目にします。改めて彼の作品を研究すると共に、バリの大地から感じるインスピレーションや、平安、愛、喜びといった素直な気持ちを表現し、作品を次々と発表していきました。ウィラナタもバリの田園風景を描きつつ、そこに子供の頃の記憶を再構成、心象風景画としての側面が強い作品を発表しています。
シュピース自身もかつてアンリ・ルソーに傾倒し、1923年に都会の喧噪から逃れるように、当時東インド会社の東端にあったインドネシアにやってきました。熱帯のジャングルをモチーフに絵を描き、夢で見た光景やバリ島からインスパイアされたものを要素として盛り込んでいくことで、それはやがて「熱帯風景画」(シュピース・スタイル)というひとつの新しいジャンルへと発展していきます。
(左)『動物寓話』1928年
バリ島西部のジャングルを歩き制作した作品。バリに来てすぐの頃に描かれた。
現代のバリ絵画にはオリジナリティがあるというのが私の結論です。モダンアートのように尖った表現とは異なり、じんわりと心に染みて来る素朴なやさしさがあります。ただし、そのためには画家を選ばなければなりません。商業主義に走り、他人の作品を模倣して作られた作品が溢れる中から、本物を見極める目を養わなければならないのは、欧米も日本もバリも同じです。
さて、第3回バリアートサロンはバリの風俗画を取り上げます。西洋の影響によって、作品の対象は民衆の生活へと広がっていきます。 バリ独特の習慣や風習がわかるともっと楽しめますよ。詳しくは開催のご案内をご覧下さいませ。
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ご希望のサイズで注文制作も可能です。人気作家のためお時間をいただきますが、作家が自分のために描いてくれた作品という魅力があります。ご相談はお問合せからどうぞ。
シュピース – 現代画家に受け継がれる熱情
こんにちは、坂本澄子です。前回に続き、今日もシュピースのお話を。
彼の残された少ない作品の中でもとりわけ有名なのは、『風景とその子供たち』ではないでしょうか。一度見たら忘れられないような強い個性を放ち、主題である牛を連れた農夫がリフレインのように何度も出て来るこの作品。1つのキャンバス上にいくつもの時空間を共存させた、シュピースの作品によく見られる技法が用いられています。
この作品を見て、音楽を感じる人は少なくないと言います。実際、シュピースは羨ましいほど多くの才能に恵まれ、ピアニストであり、作曲家でもありました。ヨーロッパの現代社会の荒廃した世相から逃れるようにバリ島にやってきたシュピースは、第二次世界大戦中にオランダ軍に敵国人として捕らえられジャワ島に抑留されるまで(その2年後に47歳で他界)の約15年間、その地に留まりました。その間に描いた作品の中で、憧れの情景を作品の中に再構成したのでしょう。
ガルーの新作『朝のセレモニー』を初めて見たとき、作品のほぼ中央手前に高くそびえ立つ椰子の木の構図に、シュピースのこの不思議な絵を思わされました。
’95年、シュピースの生誕100年の年に、招待留学でドイツに渡ったガルー(当時27歳)は、彼の作品に直接触れ、圧倒されるほどの強い揺さぶりを感じたそうです。そして、その作品を熱心に研究し、取り入れ、そして、完全に自身の作品として昇華させています。
もうひとり、シュピースに魅せられた人がいます。ガルーの実弟、ウィラナタです。
LALASATI絵画オークションのウェブサイトで、画家としてごく初期の1990年頃に描かれた水彩画の小品2点が17万円で落札されたのを見ました。(写真はそのうちの一点)ほとんど模写のように描かれたこの作品、ウィラナタが当時いかにシュピースに傾倒していたかがわかりますね。
このように初期、前期の作品がオークションで取引されているのを見ると、ウィラナタが画家として多くのコレクターたちを惹き付けていることを感じます。
シュピースの作品は戦争中に多くが失われてしまい、バリ島の美術館でも複製画が展示されているのみです。残された作品はオークションで1億円もの価格で取引され、信奉者の間では伝説的な存在のシュピースですが、同じように南国にわたったゴーギャンなどと比べると、まだまだ過小評価されているのは残念に思います。
そうそう、前回ご紹介したシュピースの著書に走り書きされたメッセージ、まだ解読できておりません。英語、ドイツ語ではないことははっきりしたので、次はフランス語の線をあたっています。ヒントがありましたら、コメントでお知らせいただけると嬉しいです。
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ミステリアスな魅力・シュピース
こんにちは、坂本澄子です。
「幻想心象風景画作品展」にたくさんの方にお越しいただき、ありがとうございました。お客様がFacebookに投稿された写真を見て、初めて来て下さった方もあり、本当に感謝です!
今回展示したガルー、ウィラナタはいずれもドイツ人画家シュピースに傾倒し、その幻想的な作風の影響を強く受けた作家たちです。奥の部屋に関連書籍として、ワルター・シュピースの半生を描いた『バリ、夢の景色。ヴァルター・シュピース伝』を置いていたところ、手に取って見られた方がかなりおられました。
そんな中、一冊の古い本を取り出し、「ずっと気になってることがあるんです」と、バリ絵画を愛してやまないOさん。バリ絵画展の常連さんです。
聞くと、何でも、2、3年前に神田の古書街を歩いていたところ、源喜屋書店でたまたまシュピースの著書『Dance and Drama in Bali』(1938年刊)を見つけ、その場で購入したのだそう。これまで多くの人の手を渡り歩いてきたと見られ、団体や個人の蔵書印がいくつも押されています。ふと表紙の内側を見ると、万年筆で走り書きされた文字が。1939年3月6日と日付の書かれたメッセージのようです。
「もしかして、シュピースの直筆ではないかと思いましてね…」
いてもたってもいられなくなり、私に見せたいとわざわざ持って来られたというわけです。これがその写真。
確かにドイツ語のようにも見えなくはないのですが、残念ながら、シュピースのサインは左の写真のような読みやすいアルファベットで、明らかに筆跡が違いました。しかし、1939年と言えば、この本が発行された翌年。間違いなくシュピースと同じ空気を吸っていた人の手によるものです。
「何て書いてあるんでしょうね」
がぜん興味が湧いてきました。何だか探偵になった気分^o^ Oさんもそれを調べてほしくて、ウズウズされている様子。しかし、いかんせん、達筆過ぎて…。どうも、ドイツ語でも英語でもなさそうです。
そこでお願いなのですが、この文章の意味をわかる方がいらっしゃいましたら、ぜひお教えいただけませんか?
ところで、この本は絵画ではなくバリ舞踊について書かれたものなんです。シュピースは絵画だけでなく、演劇、音楽、文学など、幅広い分野でその才能を発揮し、バリ舞踊を外国人も楽しめるようリメイクしたことでも知られています。その功績が称えられ、「バリ人から最も愛された外国人」と言われる一方で、「最も憎まれた外国人」とも。降臨した神様に対して舞うという神聖なものを世俗的に書き換えたと捉えられることもあるのです。
芸術家が万人から支持されることはまずないですし、その魅力が強ければ強いほど、非難されることも多いものですが、100年近い時を超えて、シュピース・スタイルとしてバリの今日の画家に受け継がれ、多くの人々を魅了し続けていることは、やはりすばらしい功績だと思うのですが、いかがでしょうか。
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シュピース・スタイル スタイルの特徴と作品をご紹介しています
「人物描写にリアリズムを与えたオランダ人 ボネ」
こんにちは、坂本澄子です。花冷えという言葉の通り、ぽかぽか陽気の翌日はまたコートが欲しくなったりとなかなか落ち着きませんね。どうか体調を崩されませんように。私はと言えば、昔から「元気で長持ち」が取り柄、御陰さまで風邪もひかずに頑張っています。
さて、今日は「バリ絵画に影響を与えた外国人」シリーズの最終回、人物描写において西洋の解剖学に基づく表現力をもたらしたオランダ人画家を紹介します。
それまでのバリ伝統絵画の人物描写は、斜め横向きで顔や身体を描き、どちらかと言えば画一的かつ平面的な表現でした。芸術解剖学は人体の構造、つまり骨組みや筋肉のつき方を学び、より写実的に人物を描写する基礎学問です。1920年代、オランダ統治下にバリを訪れた外国人画家の中でも、このような技法をもたらすことでとりわけ大きな影響を与えたのはルドルフ・ボネではないでしょうか。
1895年にオランダの商家に生まれ、アムステルダムの美術学校で伝統絵画についての学術教育を受けました。その後イタリアに渡り、教会の壁や天井を飾る壮大なフレスコ画に感銘を受けます。シュピースがアジア的なものに憧れ、絵画だけでなく舞踊、儀礼など芸術全般の広い範囲に於いてバリの伝統にのめり込むように活動したのに対して、ボネは西洋絵画の学術的伝承という役割を意識していました。バリにやってきたのは1929年で、40年以上に渡りバリで活動しました。彼はパステルを用いた人物画を得意とし、しなやかな体躯を持つバリの若い男たちを好んでテーマに取り上げ自ら制作を行う傍ら、学術的な見地から西洋の技法を紹介しています。
同時代に活躍したオランダ人画家として私が一票を投じたいのは、ヴィレム・ジェラルド・ホフカー。彼はボネと同じくパステルを使って、バリの若い女性の柔らかで滑らかな肌を巧みに表現しています。その瑞々しさは素晴らしいです。余談になりますが、私がこの「バリアートショールーム」でご紹介しているアンタラさんの作品に惹かれたのもほぼ同じ理由からです。脱線ついでにもうひとつ。戦前のバリは男性も女性も上半身裸だったため、1922年、ドイツ人医師グレゴール・クラウスの写真集「バリ島」でその様子が紹介されると、バリは一躍「最期の楽園」ともてはやされ、オリエンタリズムが一気に広まります。ヨーロッパから訪れる観光客が急速に増えたのはこの時期でした。
前回ご紹介したシュピースやボネらの活躍により、バリ絵画は西洋技法を取り入れその表現力を増し、“ウブド・スタイル”と呼ばれる様式へ進化していきます。それまでテーマとしては宗教的な物語が中心だったのに対して、祭礼、農耕、闘鶏、機織りといった村人たちの日常生活が取り上げられるようになり、その中で人物が生き生きと描かれるようになったことも特徴のひとつです。写真の作品を見ても、踊り手たちの筋肉の動きがよりリアルに表現されているのがわかります。
ボネはバリの芸術家協会「ピタ・マハ」創設の主要メンバーとして、バリ絵画の芸術的地位の確立に尽力すると共に、1956年には、ウブド王宮の当主チェコルダ・スカワティと共に「プリルキサン美術館」の設立に携わり、バリ絵画の発展に大きく貢献しました。「プリルキサン美術館」ではバリ絵画の作品が年代を追って紹介されており、その歴史と進化を知ることができます。ウブド中心部の便利な場所にありますので、バリ行かれる機会があれば是非立ち寄ってみて下さいね。
「熱帯幻想風景を描いたドイツ人 ヴァルター・シュピース」
こんにちは、坂本澄子です。昨日バリから連絡があり、GALUHさん(シュピース・スタイル画家)の新作を絵画展に間に合うよう送ってくれるとのこと。ちょうどこの原稿を書いていた時だったので、とても嬉しい気持ちになりました。
前回ご紹介したアリー・スミットは戦後に活躍した画家ですが、シュピースと次回ご紹介するボネは1930年代のバリ・ルネッサンス期に活躍した芸術家です。特に、シュピースは画家として西洋絵画の技法を紹介しただけでなく、観光化によって廃れ行くバリ伝統芸能や儀礼、音楽の保護に私費を投じ、広くその芸術復興に寄与したことから「現代バリ芸術の父」と呼ばれています。
1895年モスクワ生まれ。ドイツ人外交官の息子としてロシア帝政の上流社会で育ち、1942年に日本軍の東インド侵攻によりセイロン島へ移送される途中で洋上に没するまでの47年間、激動の人生を送りました。第一次世界大戦中は敵国人としてウラルの抑留キャンプに収容され、そこで触れた遊牧民の素朴な生活やプリミティブ・アートに触発され、独特の人生観、芸術観が形成されていきます。そして1923年、“魂を持つ人々と暮らす”ため戦後の荒廃したヨーロッパを離れ、オランダ領東インド(現在のインドネシア)へと向かったのです。ウブド王宮の招きに応じてバリに移住したのは1927年のこと。彼の世界観についての説明は別の機会に譲るとして、今日は彼の作品の紹介に注力したいと思います。解説の一部は坂野徳隆さんの「バリ、夢の景色 ヴァルター・シュピース伝」(文遊社)から引用しました。シュピースの芸術活動やその背景にある精神生活を知る上で大変参考になりますので、ご関心があれば是非読んでみて下さいね。
シュピースの作品は「風景とその子供たち」に代表されるように、夢と現実が混在するような幻想的な作風が特徴です。後のシュピース・スタイルの原型は1927年の「夢の景色」に見ることができます。その名の通り、彼が見た予言的な夢の情景を絵にした作品です。二つの地平線を使い、異なる空間を一枚の絵に表現しています。この5年後に描かれた「鹿狩り」では上下に絡み合ったふたつの地平線を軸に、いくつもの異なる景色が描かれ、その技法はその後熱帯幻想絵画へと発展、定着していきます。それでは、シュピースは異なる時間、空間軸をどのように一枚の絵に表現していたのでしょうか。作品を例に見て行きたいと思います。
「村の通りの眺望」
中央の木が絵を左右に二分割し、さらに上下の地平線により四分割されています。左下に小屋の陰に腰を下ろす老人が描かれ、その右の柵の向こうに幻想的な斜光が奥行きを出す、見通しのきいた村の通りが伸び牛を後ろから急かす農夫の姿が見えます。その上の空間には、天秤棒に荷物を下げ、軽い足取りで反対方向へ向かう農夫。上下を分割すれば遠近がそれぞれ左右の場面で均衡していますが、上下は水と油のように反発しています。しかし、シュピースは彼が得意とする中間距離の木々の深い陰影を使ってその反発をうまく溶解し、一瞥しただけではその幻想的なコンポジションに気がつかないほど自然な風景画に仕上げています。
「朝日の中のイッサー」
後期作品。深い陰影、長く伸びる農夫や牛の影、蒼色に輝く黎明の棚田の風景を右手前の人物が見下ろす構図です。前期のように異なる地平線は見られませんが、右上からの斜光と椰子の葉の非連続性がさりげない幻想性を表しています。夢と現実の境目は曖昧で、それを判断しようとする観察者の意識は大抵斜光か陰影に吸い込まれ、気がつくと絵のランドスケープの中にいるのです。
シュピースは生涯あまり多くの作品を残していません。原画が失われ写真などで見られるものを含めてもせいぜい100点くらいと言われています。また作品のほとんどがバリ島外に点在しているため、バリの美術館でも彼の作品の原画を見ることはできませんでした。それだけに一層、その不思議な作風とともにミステリアスな存在感を持って迫ってきます。
「バリ絵画に色彩を与えたオランダ人 アリー・スミット」
こんにちは、坂本澄子です。このところ全国的にお天気が悪く、また少し寒くなりました。風邪をひかれませんよう、お身体には十分気をつけて下さいね。
さて、今日から「バリ絵画に影響を与えた外国人たち」と題して新シリーズをお届けします。バリ伝統絵画はワヤン(影絵芝居)の芸能として16世紀頃に始まり、インド叙事詩やヒンドゥの神話など、芝居の物語をテーマに描かれました。やがてバリ古典絵画として少しずつ進化していきますが、いずれも画面いっぱいに細かく描き込まれた平面的な構図、墨や暗い色使いでの彩色が基本的な特徴としてあげられます。植民地時代を境にオランダ人を始めとする外国人がインドネシアを訪れるようになり、バリ絵画にも大きな影響を与えました。西洋の技法である遠近法や明るい色彩感覚がバリの古典技法に融合し、現在のバリ絵画の源流を形作っています。
今回ご紹介するオランダ人画家アリー・スミットは、特に色彩という点でバリの画家に強い影響を与えました。1916年アムステルダムに生まれ、第一次世界大戦中に兵役に服し、オランダ領東インド(現在のインドネシア)に地理班のリトグラフ制作技師として滞在。侵攻して来た日本軍に捕らえられ、3年間捕虜としてシンガポールやタイ、ビルマで道路や橋の建設工事に従事するなどつらい時期を過ごしました。戦後は独立を宣言したインドネシアに戻り、ジャワ西部にあるバンドゥン工科大学でグラフィックとリトグラフィーの教鞭をとる傍ら、自らの芸術を追い求めます。バリ島に移住したのは10年後の1956年のことですが、そのわずか2ヶ月後にはこの島に永住することを決めています。バリ島内で何十もの場所に移り住んだ結果、安住の地として選んだのが、ウブドのプネスタナン村でした。ウブドには多くの画家たちが農作業をしながら制作に取り組み、ウブド王宮も外国人画家を積極的に保護していました。ここで地元の画家たちに西洋技法を教えながら、画材を与えて自由に描かせたのです。その結果、1960年代にこの地域を中心にバリの伝統もチーフを明るい色彩で描く「ヤング・アーティスト」と呼ばれる画家たちのグループが興り、一世を風靡することとなりました。
スミット自身も独特な色使いでバリの風景を描いた作品を数多く残しており、バリ島ウブドのネカ美術館には彼の作品だけを展示したパビリオンがあります。実は私自身も彼の作品を初めて目にした時、その色使いにすっかり魅了されてしまいました。ウブドは街灯も信号もない村ですから、夜に外を歩く時は月明かりだけが頼りです。満月の夜に見た景色は確かに「満月の儀式」(写真)のようでした。あるいは、昼間の陽光のもとで見る風景は確かにこうだったと鮮やかに脳裏に甦ってくるのです。
創造的で多作なスミットは見慣れた光景を新たな視点で見直そうと色々な試みをしました。例えば、彼の作品は印象派の鮮やかな光と色を彷彿させますが、印象派の画家が屋外で描き上げるのに対して、彼はその風景の現場で作品を描くことはせず、スケッチだけその場で行うと、後はアトリエに戻って作品を仕上げました。また、彼は色彩と構成の達人で、本質的な姿まで簡略化されたモチーフを繰り返し使用することにより独特のリズムを創り出すことに成功しています。私の好きな「蘭」(写真)を見ても、それはいかんなく発揮されています。やがて、生命の美と深淵なリズムを表わす独特の「崩れた色彩」の技法へと普遍化され、バリの人々や風景を描いた彼の作品に強い生命力を与えました。
こんなアリー・スミットに影響されたバリの画家たちはどんな作品を描いたのでしょうか。
「ヤング・アーティスト・スタイル」で第一人者と言われる、イ・ニョマン・チャクラ 、イ・クトゥット・タゲン、イ・クトゥット・ソキらの作品を見ると、斬新な色使いを除けば、題材、スタイルのいずれにおいてもスミット自身の作品とは大きく異なっています。彼らに共通する特徴として、ヒンドゥ教の祭礼や農耕生活をモチーフにしている点、極彩色を用いながらも全体として統一感のある色使い、そして平面的な構図の中に多彩な物語性を持っている点などがあげられます。つまり、彼らはバリ伝統絵画の特徴を残しつつ、スミットの色彩感覚を取り入れたと言えます。彼らの作品はいずれもバリの主要美術館で見ることができますが、ここではこの「バリアートショールーム」でも作品を扱っている、ソキ氏の作品を紹介します。
ヒンドゥ教の宗教儀式はとても数が多く、バリ歴と呼ばれるカレンダーで司られています。ヤング・アーティストの作品には、これらの祭礼に欠かせない飾り傘、長くひるがえる旗、色とりどりのお供えなどが明るい色彩で描かれています。また、顔の表情を描かないことがありますが、これも簡略化を指向したこのスタイルの特徴。黒っぽい背景によって、色彩がより鮮やかに濃厚に表現されています。