バリアートショールーム オーナーブログ
2013.4.6

「熱帯幻想風景を描いたドイツ人 ヴァルター・シュピース」

こんにちは、坂本澄子です。昨日バリから連絡があり、GALUHさん(シュピース・スタイル画家)の新作を絵画展に間に合うよう送ってくれるとのこと。ちょうどこの原稿を書いていた時だったので、とても嬉しい気持ちになりました。

前回ご紹介したアリー・スミットは戦後に活躍した画家ですが、シュピースと次回ご紹介するボネは1930年代のバリ・ルネッサンス期に活躍した芸術家です。特に、シュピースは画家として西洋絵画の技法を紹介しただけでなく、観光化によって廃れ行くバリ伝統芸能や儀礼、音楽の保護に私費を投じ、広くその芸術復興に寄与したことから「現代バリ芸術の父」と呼ばれています。

1895年モスクワ生まれ。ドイツ人外交官の息子としてロシア帝政の上流社会で育ち、1942年に日本軍の東インド侵攻によりセイロン島へ移送される途中で洋上に没するまでの47年間、激動の人生を送りました。第一次世界大戦中は敵国人としてウラルの抑留キャンプに収容され、そこで触れた遊牧民の素朴な生活やプリミティブ・アートに触発され、独特の人生観、芸術観が形成されていきます。そして1923年、“魂を持つ人々と暮らす”ため戦後の荒廃したヨーロッパを離れ、オランダ領東インド(現在のインドネシア)へと向かったのです。ウブド王宮の招きに応じてバリに移住したのは1927年のこと。彼の世界観についての説明は別の機会に譲るとして、今日は彼の作品の紹介に注力したいと思います。解説の一部は坂野徳隆さんの「バリ、夢の景色 ヴァルター・シュピース伝」(文遊社)から引用しました。シュピースの芸術活動やその背景にある精神生活を知る上で大変参考になりますので、ご関心があれば是非読んでみて下さいね。

シュピースとその代表作「風景とその子供たち」

シュピースとその代表作「風景とその子供たち」

シュピースの作品は「風景とその子供たち」に代表されるように、夢と現実が混在するような幻想的な作風が特徴です。後のシュピース・スタイルの原型は1927年の「夢の景色」に見ることができます。その名の通り、彼が見た予言的な夢の情景を絵にした作品です。二つの地平線を使い、異なる空間を一枚の絵に表現しています。この5年後に描かれた「鹿狩り」では上下に絡み合ったふたつの地平線を軸に、いくつもの異なる景色が描かれ、その技法はその後熱帯幻想絵画へと発展、定着していきます。それでは、シュピースは異なる時間、空間軸をどのように一枚の絵に表現していたのでしょうか。作品を例に見て行きたいと思います。

シュピース「村の通りの眺望」(1935)

シュピース
「村の通りの眺望」(1935)

「村の通りの眺望」

中央の木が絵を左右に二分割し、さらに上下の地平線により四分割されています。左下に小屋の陰に腰を下ろす老人が描かれ、その右の柵の向こうに幻想的な斜光が奥行きを出す、見通しのきいた村の通りが伸び牛を後ろから急かす農夫の姿が見えます。その上の空間には、天秤棒に荷物を下げ、軽い足取りで反対方向へ向かう農夫。上下を分割すれば遠近がそれぞれ左右の場面で均衡していますが、上下は水と油のように反発しています。しかし、シュピースは彼が得意とする中間距離の木々の深い陰影を使ってその反発をうまく溶解し、一瞥しただけではその幻想的なコンポジションに気がつかないほど自然な風景画に仕上げています。

シュピース「朝日の中のイッサー」(1939)

シュピース「朝日の中のイッサー」(1939)

「朝日の中のイッサー」

後期作品。深い陰影、長く伸びる農夫や牛の影、蒼色に輝く黎明の棚田の風景を右手前の人物が見下ろす構図です。前期のように異なる地平線は見られませんが、右上からの斜光と椰子の葉の非連続性がさりげない幻想性を表しています。夢と現実の境目は曖昧で、それを判断しようとする観察者の意識は大抵斜光か陰影に吸い込まれ、気がつくと絵のランドスケープの中にいるのです。

シュピースは生涯あまり多くの作品を残していません。原画が失われ写真などで見られるものを含めてもせいぜい100点くらいと言われています。また作品のほとんどがバリ島外に点在しているため、バリの美術館でも彼の作品の原画を見ることはできませんでした。それだけに一層、その不思議な作風とともにミステリアスな存在感を持って迫ってきます。

コメントをどうぞ

※は必須