バリ絵画に見るシュールレアリズムの薫り ①
こんにちは、坂本澄子です。
東京は久し振りに晴れました。気持ちのいい青いそらです。
先日、私の前職時代の先輩で、現在はプロフェッショナル・コネクターとして活躍されている勝屋久さんが興味深いことをつぶやいておられました。
「最近、すごく感じることがある。リアルに同じ時空間にいるのに、その時空間が二分割しているのを。katchaman ついに本当におかしくなっちゃったと思われるかもですがw
例えば、あるカフェで僕たちは【will やりたい!】がベースのワクワクグループ。見知らぬとなりのグループは【must やらなけばならない!】がベースの人たち。わかりやすい現象は発する言葉がネガかポジ。ということは思考回路が完全に違うんだなと。同じ人間なのにおもしろい。僕からすると同じ場にいるのに二分割されていて、全く違うエネルギーを感じてしまう。どっちがいいかということでない。明らかに違うということ。ますます、この目に見えない現象の二分割が進みそうな気がします」
様々なところで二極化が進む日本のいまの現実をうまく言いあてておられると感心するとともに、私の脳裏にある一枚の絵が思い浮かびました。ウィラナタの『光の風景』です。
(画像をクリックすると詳細がご覧になれます)
山の端へと陽が傾く午後。「日暮れまでもうひと頑張りしよう」と、精を出すひとりの農夫。画家ウィラナタが10歳の時に亡くなった父親の面影を重ねて描いた作品です。高名な画家であり惜しまれつつ早逝した父親のイメージを、ウィラナタは幻想的な光の戯れの中に表現しました。右側に立つ青年はもちろんウィラナタ本人です。
私はこの作品を見て、時間を惜しむかのように精魂を傾け、短いながらも充実した人生を生き抜いたひとりの人間像を浮べました。
注目していただきたいのは、右奥の人たち。ほとんど視界に入っていなかったかも知れませんが、よく見ると庇の下で寛いでいる人たちがいるんです。
「もうすぐ日が暮れるし、今日はもういいよな…」
そんな声もが聴こえてきそうで、農夫とはまるきり対象的です。
ウィラナタは子供の頃の断片的な記憶をつなぎあわせ、画家だった父親を農夫に見立て、それを見ている自分を青年の姿という、現実にはあり得ない光景として描きました。逆光にすることで、夢の中のような非現実感を増すことに成功しています。そして、勝屋さんの言われる二分割をさりげなく描いているのです。あくまでも、さりげなくです。淡い光は同じように降り注ぎ、大地は分け隔てなく育みます。バリにはそんな鷹揚さが残っており、それがこの絵を見る人をほっとさせてくれます。
70cmx100cmと大きなこの作品。まるで窓の向こうに別の風景を見ているようだと、先の「春のバリ絵画展」でも多くの方が足をとめてくださいました。
前回のブログでご紹介した西洋のシュールレアリズムとは全く異なる表現ですが、記憶の断片をつなぎあわせて、現実には存在しないひとつの光景を描いたこの作品にも、どことなくシュールな薫りを感じませんか。
この作品、ご自宅にお持ちしてお部屋にかけてご覧になれます。詳しくはこちらをどうぞ。
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