絵の具からバリ絵画を見ると 前編
こんにちは、坂本澄子です。
バリ絵画の多くは、アクリル絵の具で描かれていることをご存知ですか?水て溶いて使う手軽さは水彩と同じ。乾くと水に溶けなくなるので、塗り重ねが自由にできるという利点があります。同じことは油絵の具でもできますが、乾くのになにしろ時間がかかるので、乾いては塗るのを何度も繰り返して、微妙な深〜い色合いを出すという点では断然アクリル絵の具に軍配が上がります。
実は私もバリ絵画との出会いの中で、アクリル絵の具の魅力に触れ、自分でも絵を描くときに使っています。
アクリル絵の具は絵画の歴史の中では比較的新しい画材で、商品化されたのは戦後間もないアメリカで。発色の良さや速乾性からすぐにデザイナーたちに受け入られ、ファインアートの分野でもファンを広げています。
そのアクリル絵の具、なぜバリ島の画家たちの間でこんなに普及しているのか。これは私の想像ですが、バリの自然や風物を表現するのに鮮やかな発色がマッチしていたことと、気候に左右されることなくすぐに乾くことが、ガッチリ彼らのハートをつかんだのではないかと思います。
冒頭でご紹介した塗り重ねの技法を、制作に巧みに生かしているのはLABAさんです。緑いっぱいの花鳥画はバリ島に溢れるほどありますが、やがて見飽きてしまい、何となく安っぽい感じに見えてしまう作品も少なくありません。その原因のひとつは、単調な色使いだと思うのです。
ところが、LABAさんの作品には見ればみるほどさまざまな緑が使われています。色調と明るさの異なる緑が交互に現れ、独特のリズムさえ感じます。薄めに溶いた色を幾重にも塗り重ねる技法によるものですが、透明度の高いカラーセロファンを重ねると下の色が透けて、複雑に色が変化しますよね。これと同じことが絵の具でも起こり、きれいな透明感と同時に深みも作り出しているというわけです。
なかでもおすすめはこちらの『少年たちの情景』。画家が少年時代を懐かしんで描いた作品ですが、絵の手入れをしながら間近に見て、何度「すごい!」と思ったことか。写真だとお伝えしきれないのが残念です。
70x50cmと少し大きめの作品は、前景、中景、背景とそれぞれに見所があります。例えば、雲のようにも波のようにも見え想像力を掻き立ててくれる遠景。風にしなる椰子の木の迫力。模様のように簡略化された稲穂と草地が交互に繰り返されるリズム感など、絵としての面白さに溢れ、また、様々な種類の緑が素朴な表情の少年たちを引き立てながら、全体としてしっとりと調和した作品に仕上がっています。
ところで、アクリル絵の具のもうひとつの特徴はアクリル樹脂が作る強い表面です。一旦乾くと水をつけてゴシゴシやってもビクともしません。私もこれで洋服を何枚だめにしたことか(笑)ですから、絵の前にアクリル板を入れずに額装して、作品そのものの美しさを楽しんでいただければと思っています。おタバコを吸われないのであれば、お手入れは固く絞った柔らかい布でやさしく埃を取るだけでOK。
湿度の高いバリ島では、古い絵のほとんどが朽ちて残っていないという残念な歴史があります。アクリル絵の具の威力で、LABAさんのようないい絵が次の時代に受け継がれていきますようにと、願う今日この頃です。
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3万円で始める絵のある暮らし
こんにちは、坂本澄子です。
先日嬉しいことがありました。友人が私が描いた絵を購入してくれたのです。四年前のちょうど今頃の季節に、ススキと朧月を描いた作品です。
月はあえて実体を描かず、光によってそこにあることを感じさせる構図。自分でも気に入っていた作品だったので、とても嬉しく思いました。ただ、ソフトパステルで描いたので、今見ると、細密さの点で少し物足りない気も。そこで、細部と月の光に手を入れて、改めて完成としました。
このサイズ(10号)ですと5万円くらいでお引き受けすることが多いのですが、そこは友達ですし、聞けば銀婚式を迎えられたとのこと。あら、それはお祝いをしないとと思っていたところ、嬉しいご提案をいただきました。
「5万円だと一回買ったら次はいつ買えるかな。それ以上だといまはちょっと難しい。もし3万円なら毎年買う楽しみができる。絵の好きな普通のサラリーマンが小遣いで買うとすると、そんな感じじゃないのかな」
私は喜んで3万円でその絵を嫁がせることにしました。だって、一回こっきりより、絵を通じて、買う楽しみと描く楽しみを分かち合える関係が続く方がいいですもの。
友人はその絵を和室の床の間に飾り、さっそく写真を送ってくれました。私はこれだ!と思いました。掛け軸は季節によって掛け替えますよね。絵もそんな感覚で、季節やその時々の気分によって架け替えてもいいんじゃないかと。
私がバリ絵画を扱い始めたのも、まさにこれと同じ発想でした。絵が好きな普通の人がちょっと頑張れば、現地の美術館所蔵の著名作家の作品が買え、お小遣いの範囲でも、質のいい絵が選べる。ただ、現地のギャラリーはコピーも含めて玉石混交なので、心ある作家を選んで紹介していきたいと考えたのです。
そんな大切なことを思い出させてもらった出来事でした。税込3万円台で購入できるいい絵は、こちらをどうぞ!
バリ絵画の歴史③ 光を取り込む風景画
こんにちは、坂本澄子です。
風景画というジャンルを作ったのは印象派の画家たちだったそうです。それまで絵の具は保存が効かず、画家や助手が絵の具を手練りしながら描いていました。ところが、チューブ式の絵の具が開発されると一気に制作の自由度があがり、絵の具とキャンバスを持って、戸外へ出て描けるようになったというわけです。
モネは、パロトンだった実業家・オシュデの次女ブランシュに手伝ってもらい、手押し車に画材一式を積み込んで、制作に出かけたそうです。最初の妻カミーユが亡くなった後、オシュデの妻だったアリスと結婚したので、ブランシュはその後もずっとモネの助手を務めることとなりました。
「自分のアトリエは空の下だ」と言ったように、素早いタッチで一瞬の光と影を捉えたモネの絵。光が移ろうまでのわずかな時間をうまく使うために、ある工夫をしていました。毎日セーヌ川の支流沿いを移動しながら、この時間帯はこの場所でこの絵、次の時間帯は別の場所で別の絵というふうに、複数の作品を同時進行で描いていたのだそうです。こんなふうに描かれた風景画は、パリの密集した住宅の薄暗い部屋にも光を運び込んでくれました。
バリ島で風景画が描かれるようになったのは、ヨーロッパから来た画家たちの影響によるもの。特に、ドイツ人画家シュピースの幻想的なタッチは、いまでもシュピース・スタイルとして人気を博しています。
シュピースがバリ島に滞在した’20〜30年代、彼の弟子だった2人の青年ソプラットとメレゲックは、バリの芸能の徒弟制度にならい、師の描く通りを真似て技術を習得する方法で、絵を学んでいました。模倣から脱せない弟子たちを見たシュピースは、あるとき「僕の絵を真似るのではなく、君たち自身のやり方で描いてごらん」とアドバイスしたそうです。彼らは困惑しながらも自身の表現を模索し、その精神は80年の歳月を超えて受け継がれ、同じアグン・ファミリーにガルー、ウィラナタといった人気作家を輩出しました。
ガルーの作品は空気感のあるふんわりとした柔らかい風景が特徴で、バリ島の風景の雰囲気をよく表していると思います。人物が描かれているので、その人になったつもりで見ると、絵の中に入っていきやすく、より臨場感を持って感じることができます。ひんやりとした朝の空気だったり、風が椰子の葉をそよがせる音だったり。実際、画中の人物は画家自身をなぞらえたものであることが多いそうです。
熱帯の島バリで、屋外にイーゼルを立てて絵を描く画家の姿をみたことはありませんが、バリの民家は建物自体が非常にオープンな作りなので、自然と一体になって生活していると言っても過言ではありません。
生まれてこのかた脳内にインプットされたバリの様々な風景の蓄積が、夢の中の風景のようでいて、リアルに五感に働きかけてくる独特の作品を生み出すインスピレーションの源になっています。
その昔、ヨーロッパのブルジョアたちが愉しんだように、ガルーの作品でお部屋に光を取り込んでみませんか。
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ガルー作品ページ・・・5点在庫があります。実物をご覧いただくこともできます。
ウィラナタ作品ページ・・・ガルーの実弟。違う光の表現がこれまた魅力
バリ絵画の歴史② 買い手が変われば品も変わる
- こんにちは、坂本澄子です。バリ絵画の歴史を西洋絵画と対比させながら解説するシリーズ、第二話をお届けします。
その後ヨーロッパでは、太陽王と呼ばれたフランスのルイ14世に代表される強い王様の時代(絶対王政)がやってきます。ベルサイユ宮殿など、豪華で煌びやかなバロック様式の宮殿を彩ったのは神話や歴史を題材にした壮大な作品の数々。光と影の対比によりドラマチックに演出するのが当時の流行でした。
この時代に活躍したのが、イタリアの画家カラヴァッジョ、オランダの画家ルーベンス、レンブラントなどです。ここでも、おかかえ絵師として注文を受けて描くという基本的なスタイルは同じでした。
それが大きく変わったのは19世紀。その背景には2つの大きな革命がありました。フランス革命を始めとする市民革命、そして、産業革命です。これらによって一般大衆社会が生まれ、ブルジョアと呼ばれるお金持ちの市民が新たに絵画の主要な購入層となりました。
すると、それまで宗教画や歴史画などと比べ低く見られていた、風俗画や肖像画などが好まれ、また一般家庭でも飾りやすい小品が求められるように。やがて、画家たちは注文を受けてではなく、自発的に制作を行い、市場に向けて作品を発表するようになるのです。現在の銀座の画廊で絵を売っているのに近い形ですね。
東インド会社による商業の発達により、早くから市民階級が台頭したオランダでは、既に17世紀にこの形が見られるようになります。フェルメールに大作が少ないのはこのためです。
そして、最も激動の時代を経験したフランスでは、アングル、ドラクロワ、クールベなど、サロン(官展)画家の時代を経て、印象派の画家たちによってこの新しいスタイルが定着しました。
バリ島でも大きな変化が起こりました。1908年のオランダ軍によるバリ全島支配です。当時バリ島は8つの王国による群雄割拠の時代でしたが、早くからオランダと友好な関係を結び、唯一領事という立場で生き残ったギャニャール王国以外は次々と攻め滅ぼされます。
1930年代、「最後の楽園」としてヨーロッパに紹介されると、ヨーロッパの人々は押し寄せるようにバリ島を訪れます。その中には南国の陽光としがらみのない自由な土地を求めて移り住んだ画家たちもいました。ギャニャール王の傍系だったウブド王家のチョコルド・スカワティは、早くから西洋式の教育を受け、ヨーロッパからやってきた芸術家たちを保護する政策にでます。そんな画家のひとりが、すでに何度もご紹介しているドイツ人画家シュピースです。彼はのちにチャンプアンに住まいを構えるまで、ウブド王宮内に住んでいました。
- このようにして西洋絵画と出会ったバリ絵画は、西洋絵画と似た変化をたどります。それまでバリ絵画といえば宗教画が基本でしたが、ヨーロッパから来た画家たちがバリ島の風景や人々の暮らしを珍しがって描くのを見て、目からウロコだったのではないでしょうか。「こんなのもアリなんだ」と新たな買い手となった西洋人に向けて、これらのモチーフを自身の作風で描くようになったのです。
買い手が求めるものを売り物にするのは、古今東西同じですね。そんなウブドには、スポンサーを失った各地の絵師たちが続々と集まり、今の芸術村が形成されていきます。
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バリ島の生活を描いた作品なら
細密画・・・ぎっしりと描き込まれた小さな世界
バリ絵画の歴史① 絵画のスポンサー
こんにちは、坂本澄子です。
古今東西、絵画の題材にはその時代のスポンサーが誰かが色濃く反映されています。
例えば、ルネッサンス期の画家と言えば、レオナルド・ダビンチ、ラファエロ、ミケランジェロ…が真っ先に思い浮かびますよね。主な作品はいずれも宗教画です。聖書の場面やイエス・キリストとマリアの母子像などが盛んに描かれました。これは当時の芸術のスポンサーが教会だったからなんです。
教会から注文を受けて、ダビンチはサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ修道院の食堂に『最後の晩餐』を描きました。そして、ミケランジェロは『ダビデ像』など彫刻家としての方がむしろ有名ですが、絵画でも超大作を残しているんです。システィーナ礼拝堂の天井画『最後の審判』は4年の歳月をかけて彼ひとりで描いたそうです。フレスコ画なので、漆喰を塗っては描き、また塗っては描きを延々と繰り返します。そうしているうちに、首が曲がったままになってしまったとか。
バリ絵画もこれとよく似た歴史を辿っています。14世紀、イスラム勢力の侵攻によりお隣のジャワ島を追われた僧侶や貴族によって、様々な文化がバリ島にもたらされました。中でも最も大切にされたのが、神様とつながるための手段である舞踊でした。舞うのは村の中で選別され、子供の頃から厳しい稽古を積んだ少女たち、いわば巫女です。
そして、舞踊の伴奏としてガムランが発達し、その楽器を彩るために描かれたのが絵画だったというわけです。やがて、『ラーマヤナー』など神話の世界が描かれるようになり、バリ島の古都クルンクンにあるスマラプラ宮殿の天井画など、優れた作品が残されています。この時代のスポンサーと言えば、やはり祭礼を重んじた王族・貴族たちでした。
この古典絵画の技法はカマサン・スタイルとして現代にも受け継がれています。平面的でシンプルで素朴な描き方ですが、ほのぼのとした味わいがありますよね。
20世紀になり、この古典技法が発展したバトゥアン・スタイル(ウブドに近いバトゥアン村で描かれたため、こう呼ばれています)も、西洋絵画の影響をあまり受けることなく、バリの伝統絵画を今に伝えています。バトゥアン・スタイルでは、物語の場面がさらに細かく、画面いっぱいにぎっしりと描かれるのが特徴です。
秋の気配を感じるこの季節になると、絵巻物の中を旅するような古典絵画に惹かれます。描かれたものを見ていると、ゆっくりと夜が更けていきます。耳を澄ますと、遠くから虫の声が聞こえてきました。
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カマサン・スタイル・・・バリの古典絵画
バトゥアン・スタイル・・・カマサン・スタイルから派生した伝統絵画。
1500号の超大作 アトリエには5台の脚立が
こんにちは、さかもとすみこです。
素晴らしい画家にお会いしました。遠藤彰子さん、来年古希を迎えられるとは思えないほど、エネルギーに溢れた女性。と言っても、押しの強い感じはなく、自然体での強さ、いくらでもお話していたくなるような、素敵なオーラを持ったアーティストです。
そんな遠藤さんの作品を初めて見たのは今年7月、横浜美術館の所蔵作品展でのこと。横幅3mを超える大作には視点がいくつもあり、見ているうちに大きなキャンバスをぐるりと一回りしてしまうような、なんとも不思議な構図でした。先日たまたまNHKの日曜美術館を観ているときに、相模原の市民ギャラリーで「遠藤彰子の世界展」が開催中であることを知り、最終日に車を飛ばして見に行ったというわけです。
いきなり度肝を抜かれました。キャンバスの中でも最大のサイズ、500号を2つ、あるいは3つをつなげた超大作がずらり。ダイナミックな構図と極細の筆で描きこんだ細部の二面性を持つ作品で、天井の高い会場が狭く感じられるほどでした。
メルヘンのようなふわっとした明るさ、楽しさの一方で、どこか不安を感じさせるような面も。その多面性こそが現実の世界を象徴しているのかも知れません。
入り口付近でニコニコと立っておられたのが、当の遠藤さんでした。図録を買っていたら、「よかったらサインでもしましょうか」と声をかけてくださり、お話できる機会にラッキー。制作の上での様々な工夫や人となりを感じさせる楽しいエピソードをいくつもお聞きできました。
特に印象的だったのが、新聞の連載小説の挿絵のお仕事をされたときのこと。これまで、日経新聞夕刊の『刑事たちの夏』(’97〜’98)朝日新聞の『賛歌』(’04〜’05)、毎日新聞の『古い土地/新しい場所』(’10〜’13)と1000点を超える挿絵を手掛けてこれました。
「1点仕上げるのに4〜5時間はかかるんですよ」
毎日のことなので、その間は旅行にも行けないし、学生(武蔵野美術大学で教鞭)から飲みに行こうと誘われても行けない。どうしてもと言われたときには帰ってから描いて、夜中にバイク便で取りに来てもらうといった過酷な日々だったそう。
「ビオラ弾きのお話だったのに、私はビオラをよく知らなかったのね」
挿絵の仕事は、知らないものも含めて様々な題材を描かなければならない。また、電話の場面が一週間も二週間も続くことがあり、どうやって変化をつけるか工夫せざるを得なかった。それがとても勉強になり、今大作を制作する上でとても役にたっているといいます。絵に対する真摯で謙虚なお姿にじーんと来ました。
比べるのもお恥ずかしいですが、私も3年前に自分で書いた小説をブログで連載しており、そのための挿絵を毎日描いていました。同じ雰囲気の場面が続くとき、どうしても似たイメージしか湧いて来ず苦労した経験があるので、いかに大変なお仕事かがとてもよくわかりました。
しかし、「どんどん頭の中に湧き出てくるから、描いて外に出さないと頭がおかしくなっちゃいそう」と仰るのは羨ましい限り。きっと先生の頭の中には、とてつもない内宇宙が広がっているのでしょうね。
ところで、今回展示された30点は半分なのだと聞き、もう一度「えーっ?!」。来年11月には武蔵野美術大学で全作品が見れる展示会が開かれるそう。もう絶対行きますっ。