宮川香山展 成功の陰にはたゆまぬ努力
こんにちは、坂本澄子です。
サントリー美術館(六本木・ミッドタウン3F)で開催中の「欧米を感嘆させた明治陶芸の名手 宮川香山」展にぎりぎり間に合いました。(〜4月17日)
宮川香山は、江戸末期の1842年に京都に生まれ、明治・大正に活躍した日本を代表する陶芸家です。大英博物館などで作品所蔵されるなど、世界的にも名声を得た秘訣は、文明開化の街・横浜へ活動の場を移したこと、たゆまぬ研究を続け、常に時代が求める以上のものを創作し続けたことではないかと思いました。
会場に入って最初の作品から、一気にひきこまれました。器から這い出る2匹のカニ。硬い甲羅と脚がガサゴソと音を立てて今にも動き出しそうな迫力です。(画像はパンフレットより)
横浜に移ったのは、明治維新を迎え、父の代から有力スポンサーだった武家層にはこれまでのような販売は見込めないと感じたから。全国から輸出用の商品が集まる横浜で、欧米の愛好家に向けた陶器制作を始めたのは明治3年のことでした。欧米で好まれるのは装飾性。そこで生み出されたのが、陶器の表面をリアルな浮き彫りや造形物で装飾する技法「高浮彫(たかうきぼり)」だったというわけです。
こちら、展示のポスターにもなった、愛らしい猫の姿がほどこされた蓋つきの器です。意外に小さな作品ですが、口の中の舌や歯、耳の中の軟骨、さらには毛の一本一本まで精緻に表現されています。
見ていて楽しかったのは、どの作品にも物語性を感じること。作品には対になっているものも多いのですが、Before&Afterや対になるモチーフが表現されていました。例えば、眠そうな顔をしたミミズクの周りでからかうように飛び回るスズメたち。突如、カッと目を見開き飛び立ったミミズクに、びっくりしたスズメたち。慌ててバランスを崩して落ちそうになるものがいたりと、思わず吹き出しそうになりましたw
明治10年代の半ばになると、優美な磁器制作へと大きく方向転換します。当時、工房では数十名の職人が制作にあたり、主に海外からの注文を受けていましたが、この経営を息子の二代目香山に任せて、釉下彩の研究に取り組みました。
釉下彩というのは、釉薬と呼ばれる焼き物の表面を保護し艶を出すためのうわぐすりの下にほどこす彩色のこと。焼きあがった後に絵を描く上絵付と違って、熱によって思わぬ色に変化するのが、苦労でありおもしろいところなのだそうです。
研究熱心だった香山の残した帳面には、色の調合と焼いた後の結果が何百通りも記録されており、中には「大ベケ」と朱書きがされていました。これはやってみたけど失敗という意味。成功の陰には、人知れぬ努力と数多くの失敗があるのだと、勇気づけられました。
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ところで、バリ絵画にも少し似たところがあるのです。なぜウブドにこれほど多くの画家が集まっているのでしょうか。
オランダ統治前のバリ島は群雄割拠の時代。画家や彫刻師などの職人もそれぞれの群国に点在していました。ところが、オランダ軍によって次々と平定されると、スポンサーを失った画家や職人が、ウブドに集まってきました。ウブドの王様はオランダとうまく付き合っていたからです。
1920〜30年にヨーロッパからバリ島への観光ラッシュが始まると、伝統的なバリ絵画は西洋人好みの明るい色彩を取り入れたり、熱帯の幻想的な風景を描いたりと、様々なスタイルへと進化していきます。それが現在のバリ絵画の主要スタイルの基礎となりました。
これが売れるとなると、すぐに真似するのはどこも同じですが、独自の作風を大切にし、研究を怠らない画家の作品は息長く残っています。「バリアートショールーム」ではそんな作家の作品をご紹介しています。特に、ウィラナタさん、アンタラさんには絶えず新しいものを作品に取り入れていこうとする高い志を感じます。
4月23日(土)の「第8回バリアートサロン」では、様々に進化したバリ絵画の主要スタイルを飾りやすい小品を中心にご紹介します。詳しくはこちらをどうぞ!
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